「阿吽」・・・「あうんの呼吸」という言葉がありますが、これは2人以上で一つのことをするとき、気持ちの一致する状態(=微妙なタイミング)のことを言うそうです。でも本来「阿吽」は、宇宙の始まりと究極(=終わり?)のことなんですって。ホントかどうかわからないですけどね。
よくお寺の門とかに設置されている仁王さんも、このことを表現しているようなんです。そう、あの恐ろしい形相をした仁王像のことです。よ〜く見ると、一方は口を開ひらいていて、もう一方は閉じているんですね。そんなことは知っている・・・って。大きなお世話でしたか・・・m(_ _)m。
それでは、神社の入り口にある狛犬(こまいぬ)の口も、仁王像と同じように左右違っている(開閉)ことに気づいていましたか?あっ、それも知っている・・・。またまたm(_ _)m。
じゃぁですよ。どうして仁王さんの口や狛犬の口は、開いているのでしょう・・・か?
そう、皆さんが思っているとおりです。僕らが「阿(あ〜)」と言うとき、口は開きますよね。だから口が開いているんです。
じゃぁ、対の仁王さんや狛犬が閉じているのはなぜ・・?そうです。「吽(ウンッ)」と言うときは、閉じているからです。この開いて閉じる。これで、一対(いっつい)なんですね。一対というのか一連のことというのか。
たとえば、何か食べるときに口は開くし、噛(か)むときや飲むときは閉じる。下(しも)の話で恐縮ですが、肛門も尿道も普段は閉じていないと困りますし、開かなくなっても困ります。そして、呼吸。この呼吸も、口や鼻が開いていないと呼吸できませんね。このように、「開いて」「閉じる」ことの中には、大切なことがあるんじゃないでしょうか。
僕らの使っている日本語のひらがな文字も、「あ」と「(ぅ)ん」の間にすべての文字「い~からを」があるじゃぁないですか。この文字っていうのは、限界はありますけど、この世界(宇宙の全体)をあらわすための道具(=ツール)のようなものですし、その日本語の文字(ひらがな)が「あ」から始まり「ん」で終わるなんて、なんか不思議に思うんですよねぇ。
「阿(あ)」は、悉曇(しったん=梵字=ぼんじ=五十音図成立のきっかけ)の最初の音で開口音(かいこうおん)、「吽(ぅん)」は最後の音で閉口音(へいこうおん)なんです。日本語の五十音もこれらが基(もと)になっているようで、だから「あ」で始まり「(う)ん」で終わるのでしょうね。
それにしても「あ」が最初なのは、開くことで物事(=なにか)を生み出すからなのかもしれませんねぇ~。そして、まだまだ収まりそうにもない地震も、地が開く(地割れ)んですよね。これは、何かを生みだしているのかも・・・?でも、最後は「ん」で終わるように、この世界が閉じて(終焉して)いっちゃうのかなぁ・・・心配。