教育・・・辞書(じしょ)で「教育」をひくと、「教(おし)え育(そだ)てること」と書いてありました。文字通り、そのままの意味ですね。先生(大人)が子供に知識(ちしき)を教えて育てる。子供は何も知らない(?)ので、大人がいろいろなことを教えなくてはいけません。僕ら大人は疑(うたが)っていないのですが、本当に幼い子供たちは、何も知らないのでしょうか・・・?
「教育」という言葉の語源は、英語の「education(エデュケーション)」で、このeducationもラテン語の「educere(エデュケレ)」からきているようです。ラテン語のeducereは、「e」と「ducere」にわけられ、「e」は「外へ」と言う意味、「ducere」は「引き出す」という意味だそうです。この2つの意味を足すと「外に引き出す」。つまり「教育」とは、「子どもの持つ可能性を外へ引き出す」という意味の言葉として作られたと言われています。どちらかと言えば、教えるのではなく子供の資質(ししつ)を見極(みきわ)め、本来持っている、その子供の特性を引き出すことだったのかもしれません。
幼い子が、誰が教えたわけでもないのに、特別な何かに興味(才能)を示すこともまれではありません。しかし、偏差値社会(へんさちしゃかい)の現代では、勉強(学歴)のできることが一つの指標(しひょう)になっていて、勉強以外の余計なもの(才能)はあまり認めようとはしません。皆、同じような人になろうとしていきます。けれど僕らの体(細胞)を見てみると、誰(だれ)が決めたのか不思議なことに、一つの細胞から心臓(しんぞう)は心臓に、肺(はい)は肺にチャンとなっていきます。
もしも細胞がしゃべれて、こんなことを言ったらどうしますか・・。心臓になるべき細胞が、「オレ、今回は心臓の細胞になるのイヤだから、今から肝臓(かんぞう)になる。ずっと、動くのってなんか疲れるシィ~、できれば楽(らく)したいじゃん」なんて急に言い出したら困ってしまいますよね。かれら細胞は、自分の役目(やくめ)がわかっていて、このようなことを言わないので、ぼくらは意識することなく、日々普通に生活ができていけるわけです。毎日のように古い細胞が死んで、新しい細胞がこの体の中で入れかわっているのですが・・・・ちゃんと自分がなるべき細胞・臓器になっていくのです。そして、不平不満(ふへいふまん)も言わず、せっせせっせと働いて役目(やくめ)をはたしていきます。ご苦労なことですよね。
人の細胞と同じように、植物(自然)もそうです。桜(さくら)は桜・・。稲(いね)は稲・・。桜から別の花は咲きませんし、稲からは米ができ、トマトはなりません・・・当たり前ですね。でも、この当たり前のように見えることが、何げにすごい事なのです。
本当は、ぼくら一人一人に、体の細胞のように役目があって、今ついている職業(親が決めた等)とは何か違う(使命)ことがしたかったのかもしれません。残念ながら、子供の才能(さいのう)を見いだすことができないために、取りあえず普通の型(世間の基準という枠組み)にはめようとします。大人たちが子供の個性(こせい)をよく見て、本来持っているその子供の才能を外に引き出し、伸ばす環境を整えることができるのならば、今の「教育」という言葉の意味が、本来持つ意味「外に引き出す」に変わるのかもしれません。
子供の教育をする前に、まず大人(世の中)が変わらなくてはいけないのかもしれません・・。ひょっとしたら、僕らは、今とは違う何かをしたくて、生まれてきたのかもしれないのです。僕ら人間だけが、お金のために特別な何かになろうとしているように思えます。